高知学芸高等学校卒業

東京大学理科T類入学

東京大学理学部数学科卒業

東京大学理系大学院科学史・科学基礎論専攻修士課程入学

東京大学理系大学院科学史・科学基礎論専攻修士課程終了

東京大学理系大学院科学史・科学基礎論専攻博士課程進学

東京大学理系研究科科学史・科学基礎論専攻博士課程単位取得

米国イリノイ大学大学院へ留学

米国イリノイ大学数学系研究科博士課程修了

イリノイ大学 Ph.D.

 

 

ビジネス用の履歴書形式で書けば上記のようになるでしょう。

しかし、これでは味がない。

HPなのですから、ユーザ向けサービスとして、解説をしておきます。

 

歴史を意識した「大河ドラマ総集編」風です。

(ブーリアンテストは歴史に残るでしょうから・・・。)

ただし、内容は全て事実に基づいています。

 

ブランドイメージを考慮して、文体は、「インターネット文学」と呼べるくらい格調高いものに仕上げました。

重い内容を、如何に気軽に、一気に読ませるか。

そこが表現のポイントです。

 

勿論、山口人生本人に書いてもらいました。

 

 

 

 

高校〜東大卒業

御覧のように、いわゆる“エリートコース”を歩んで来ました。

 

高校時代には、旺文社の全国模試で表彰を受けるのが当たり前の感覚。

国立理系で、“2等”、“3等”、“4等”、“5等”、“等外”、と制覇しました。

(残念ながら、“1等”は取り損ねました。こういう記録は、履歴の賞罰の欄に書けるのかな?)

高3の時には、全国模試の数学で“常に100点満点"といった偉業を成し遂げたりして・・・。

ついでに、学内の中間・期末試験でも、数学は1度だけ98点、後は全部100点でした。

(全部、記録に残ってると思いますよ。)

あの当時、日本が数学の国際オリンピック高校の部に出場していたら、多分、私が代表で出場していたでしょう。

(“Z会”って知ってます?あれで、ほとんど満点でした、数学は。)

数学だけではなく、他の教科も結構できました。

一度、学内の中間か期末の試験で“全教科同時にクラスで1番”を狙ったことがあります。

(かなり、準備が大変でしたけど、これも“青春の記念”と思って頑張ってみました。)

結果は、1科目だけ2番、他は総て1番でした。

(どうして判るのかって?先生に“やる”と公言して挑戦したのです。)

学内の模試(年、4−5回)でも、2年生の時は、総合で常に1番、3年生の時は、総合で1番と2番が半々でした。

(当時の同級生は、今でも、この記録を覚えているでしょう、キット。)

 

このころまでは、このように、サラブレッドとしての勉強が無邪気にできたのです。

つまり、レールに乗った競争が世界の総てでした。

 

というわけで、東大の理Tを受けたんですが、これはもう、受ける前から、自信満々で、合格は“常識”という状態。

(理Vは、すでに当時から、目先の見える受験生は受けませんでした。将来、医者が余るに決まっていたからです。)

滑り止めに早稲田を受験したのですが、合格発表は見に行きませんでした。

見なくても、合格していることは判っていたので。

そして、ナメキッタ東大の2次の受験日。

これが、大風邪で得意の数学がド壷。

(実は、3年生の後半あたりから、かなり体力を消耗してました。学内の模試でも、時々、ポカをやったりして。)

多少焦ったけど、無事、現役合格。

マ、実力が桁違いに違うと、少々の失敗は問題になりませんわ、ガッハッハ。

 

もっとも、両親はかなり心配していた模様で、合格発表の掲示板を一緒に見に行った母親の顔は印象的でした。

(記念旅行のつもりだったのでしょう、多分。高知から、わざわざ見に来たもの。)

ついでに言うと、この時の写真が、某雑誌に掲載されていました。

(“東大の合格発表を喜んで見る親子”といったような風情でした。)

そういえば、掲示板を眺めていた時、誰かが、“掲示板に指をさして”などと勝手な注文をつけてましたっけ。

 

東大では、理I内で、さらに2年間競争をして、数学科へ進学。

あの当時、成績順に上から、理学部の“数学”か“物理”へ進学したものです。

たしか、全科目平均75点程度が合格最低ラインだったと思います。

(今なら、“情報”かな、トップは。東大にいないので、現状は知りません。)

 

しかし、本郷へ行くと、駒場とは雰囲気が違う。

どう違うかといえば、当時、教授連中は、学生に対し、“構える”ところがありました。

(我々の受験した年の前年は、東大受験が無かったのですよ。覚えてますか、歴史を。あの安田講堂の紛争。)

色々あったのでしょう、多分。

しかし、我々新入生にとっては、本当に迷惑。

第一、紛争の後遺症で、ストなんかがあって、ろくすっぽ授業をしないのだから話になりません。

授業中にも、全学連が教室までアジりに来る。

教室の外では、セクトがマイクを使って、大声でガナリたてる。

そもそも、何、あの“立て看板”は。

内容以前の問題。

どんな風に脳味噌が壊れると、あれほど下品な物体が作れるのか?

今になって振り返れば、本郷の雰囲気を壊すのが真の狙いだったとしか思えません。

その結果、この純情な神童としてはですね、環境に汚染されて、1年留年しました。

(本当に、この1年が、後の経歴にどれほど悪影響を及ぼしたことか。もっとも、実力が図抜けているので、最終的には、ハッピーエンドですけど。)

その直接の原因を、ここでバラします。

これは言い訳ではなく、正直な話です。

 

忘れもしない、3年に進学した最初の学期末試験前日、“アカ系”が私の下宿の隣の部屋で、徹夜で騒いだのが直接の原因です。

(全学連系だったのか、民青系だったのか、今でもわかりません。なお、今時の学生には、それほど馴染みがないかもしれませんが、当時は、“下宿”が一般的でした。)

連中の話の内容は、組合運動がドウタラコウタラというもの。

本当、うるさくって寝れたもんじゃない。

最後には、隣の大家が怒鳴り込んで一件落着。

(当時、私もウブで文句が言えませんでした。相手は大勢だし。)

しかし、時すでに遅く、当方としては、神経が高ぶって、結局、一睡もできず。

数学はレポートじゃなくって、1発勝負の試験をやるのです、学期末に。

授業の出席点なんぞはありません。

試験中、眠くって出来なければ、それでオシマイ、はいそれまでよ。

あの日は何科目やったっけ?確か、3年次の必修を落としたのです。

(追試があったという記憶がありません。)

そのせいで、4年の卒研がとれない。

仕方なく、急いで、マンションに引っ越して、1年後にパスしました。

(今度は、失敗の無いように、文京区の西片という環境の良い場所でした。ちなみに、元の下宿は本郷6丁目で東大の斜め前。)

やはり、生活環境は大切ですね。

 

閑話

どうして、あの晩に限ってアカ系が騒いだのか、当時は、まったくわかりませんでした。

単なる偶然と思い込んで、諦めていましたから。

しかし、今になって思えばですね、当時、(というか、多分、高校時代から、いや、ひょっとすると、もっと子供の時から)すでに眼を付けられていたのです、世間(の一部)に。

連中にしたら、私の調子が良すぎるので、“このあたりで少し焼きを入れておこう”程度の反応だったのでしょう。

(大衆の嫉妬は、どの時代も同様です。)

高校までは、学則により坊主頭だったので、世間の反応もそれなりのものだったのです。

(信じられます?坊主頭の進学校ですよ。しかも、中高一貫教育で6年間の丸坊主。当時はこんなことが許された時代なのです。さすがに今は、母校でも髪を伸ばしてますけど。)     ┫

 

もっとも、裏情報を流せばですね、大学の5年間で、勉強ばかりしていたわけでもありません。

少しは、(というか、そこそこ程度は)遊びました。

そうでなきゃ、この私がですよ、寝不足で失敗したぐらいで、試験に落ちるわけがないじゃないですか。

現に、東大の入試では合格してる。

(もっとも、あれは、平均点で通ったんだ。)

 

遊びの内容は、お約束の、都会風な“オシャレ”と“女遊び”。

間違っても、クラブ活動なんかはやりません。特定のサークルにすら属さない。

あくまでも、自由な立場で、各種イベントに参加しました。

 

閑話

この課外活動が、今になって、役に立っています。

これは、負け惜しみじゃなく、本音です。

人間、社会生活を送って、歳が30を過ぎれば、この意味が判るようになります。

 

1、 趣味の良いお洒落。

2、 女性との自然な付き合い。

3、 そして、なによりも、基本的に、群れに流されず、個人で行く先を決めるという意志。但し、一匹狼にはならず、常に本流に身を置く能力。

(これは、サラリーマンには不向きです。“プロのスペシャリスト”か“組織のトップ”に必要不可欠な資質なのです。君は個人行動に耐えられますか?心配・不安になりません?)       ┫

 

途中、話が脇道(社会の本道かな?)にそれましたが、以上のようなわけで、東大の数学科を1975年に無事卒業しました。

ちなみに、卒研は最適制御でした。

 

 

 

 

 

 

東大卒業〜東大博士課程修了

卒業後はどうしたか?

これが普通の人とは違います。

実は、卒業の時点で、というよりも、大学5年目に、一年かけて、自分は将来何になりたいのか、じっくりと考えました。

(当然のことですが、留年したら、色々と物思いに耽ります。)

これは結果論ですが、今になって振り返ってみれば、ストレートに卒業して、そのままレールに乗るよりも、その方が良かったと思います。

当時は、天下の東大ですから、就職先はいくらでもありました。

大学の、その筋に頼むと、確実に、大手に就職できます。

逆に言えば、そこを通すと、断れなくなる。(後輩に影響がありますから)

入社後も色々と束縛される。

一種のエリート売買です。

 

しかし、それでは、自分の未知の可能性が試せずに面白くない。

(才能のある人なら誰でも、一度は、悩むでしょう。)

そこで、大学を通さず、個人で2、3社、会社訪問もしてみました。(社会勉強です)

すると、某社なんかでは、初回に、いきなり幹部のところへ面接に連れて行く。

焦りますよ。

あたりを探っているだけなのに。

(ルアーで釣ってるのに、いきなり鰹が喰いついて来たようなもの。)

そういう場所では、大学院に行く可能性も・・・とか言って逃げました。

 

結局、将来の進路を本気で分析してみました。

 

まず、大きく分けて、大学院進学か就職か?

大学院の場合は、東大進学か、留学か、国内の別の大学か?

就職の場合は、自社か、それとも大手か?

少し、説明をしておきます。

 

当時、今と違って、まだ比較的に世の中がノンビリしてました。

東大の理学部数学科の学生は、半数以上が、大学院進学希望でした。

つまり、世間知らずで、学者になるのが、自分の適性であると単純に考えていたのです。

私もそうでした。

しかしながら、私には東大数学科の大学院には抵抗感がありました。

それはそうでしょう、数学科で留年してます。いわば、ハンディを負っているわけです。

卵の段階で、この私に、数学の才能が無いように見えるじゃありませんか。

それに、正直に告白すれば、あの時点で、数学の大学院を受験していても、落ちたでしょう。

(今では信じられない現象ですが、当時は、競争率が高かったのです、数学が。まだ、情報科学科はありませんでした。)

私は、そんな愚かな真似は絶対にしない主義です。

では、別の大学の数学の大学院は?

私立なら、まず、どこでも受かります。

結論を言えば、これが、眼中になし。

国内では、東大以外は大学じゃないと思っていました。

 

ならば、いっそのこと留学は?

この可能性について、本気で考えました。

しかし、当時、父親の体の具合が悪く、米国へ行くことには、多少、ためらいがありました。

(しかし、いざとなれば、行く気はありました。実際、その後、行ってます。)

 

結局、出した結論が、“大学院なら東大、しかも、数学以外”というものでした。

私にとって、極めて自然な結論です。

で、工学系なんかをあれこれ調べてみた結果、“科学史・科学基礎論”という課程が理学系の大学院にある。

“ここなら、数学科からも行けそうだ”という安易な結論を出しました。

実際、偏差値は数学よりズット低い。

(しかし、これが、とんでもない見込み違いだということが後になって判明します。競争率はたった6倍程度なのに、学科の意地、見栄、プライドがあったのだ・・・。)

 

一方、就職の可能性。

これも残されていました。

実は、私の実家は高知市の帯屋町という繁華街で商売をしてます。

そして、私は一人息子。しかも、父親の体の具合が悪い。

自然に、母親は、何となく、帰ってきてもらいたい風情。

少なくとも、会社勤めをするならば・・・という感じ。

しかし、一方では、せっかく東大に行ったのだから、都で一旗揚げて貰いたい趣でもある。

(“一旗”の意味が中々深い)

要は、揺れ動いているわけです。

そして、私自身も揺れ動く。

ここが思案の為所だ、お立会い!

最終的には、妥当な線として、大手に就職するのは止めて、実家を継ぐ可能性を残しました。

つまり、高知で青年実業家の道です。

(親戚筋が高知県知事をやっていたので、ある意味で、前途は洋々です。)

これも、当時の状況から言えば、自然な選択です。

 

というわけで、残された道は、東大の科学史・科学基礎論の大学院か実家かという二者択一です。

 

ここで、取り敢えず、大学院の方を調査受験してみました。

これが、夏休み辺りです。

(この時点では、まだ、どちらにするかの決定はしていませんでした。)

確か、1次試験は語学、その他。

しかたないから、やりましたよ、英語とドイツ語の復習を。

さらに、1、2カ月ぐらいかけて、勉強しました、科学史を。

1次で、多少、篩いにかけて、いよいよ2次の専門科目、つまり科学基礎論。

受けてみると、これが案外、イケテマス。

続いて、最終の面接試験。初めて会った教授連中がズラット並んでいます。

けれども、私としては、ペーパー試験に自信があったものだから、余裕です。

で、当然、合格だと思ってましたが、残念ながら、結果は×。

多分、一見の客は駄目だったのでしょう。

(あの時のペーパー試験の点数を見てみたいよ、今でも。)

 

お受験に失敗したので、残された道は、帰郷のみです。

(この時点ですら、別の大学の大学院のことは夢にも考えませんでした。実際、私立の大学院受験は、まだ可能だったのですが。)

しかし、ここで、土佐の“いごっそう”が顔を出します。

「たいした学科でもないのに、受験に失敗して引き下がるのは、面子が潰れる。ここは1年充電期間を作って、来年、また挑戦しよう。合格するために、今度は、科学史・科学基礎論の講義にも出ておこう」

という気分です。

 

閑話

今になって振り返れば、なぜか、この時、そのような気分になったのです。

あの時の、あの気分が、私の現在、いや、未来を規定したと言っても過言ではありません。

私の性質から言えば、不合格の時点で、“こんな学科、誰が行ってやるか”と思うのが自然なのですが、どうしてあんなに科学基礎論に固執したのでしょう、あの時?

ちなみに、この大学院の5年間でやった研究は、今の言葉で言えば、論理学主体の「人工知能基礎論」にあたります。    ┫

 

とはいっても、やはり、そこは山口様です。決して、ダサい真似はしません。

そこで、出した結論が、

「科学基礎論学科へは聴講生で顔を出す。但し、許可は受けても、金は出さず。」

(当時、学卒用に“研究生”という制度がありましたが、学費が必要でした。)

「実家の仕事は手伝う。」

という折衷案。

早い話が二股を掛けた訳です。

実家に余裕があると、有り難いよなー、本当に。

黙って見ている、親の器も大きいし。

 

で、翌年、再度、科学史・科学基礎論課程を受験。

ところが、今回は2次のペーパー試験で失敗。

この失敗は、本人が認めるほどの失敗です。

自分でも、“しまった”と思ったもの。

というわけで、敢え無く不合格。

 

普通なら、この辺りで、止めますわな、受験を。

下手をすると、司法試験の受験生のようになる恐れすらある。

でも、何故か、止めなかった。

“来年は通るぞ”という声が聞こえるのです、どっからか。

(教授連中の“声なき励まし”じゃないですよ。誤解の無いように。)

幻聴じゃあるまいし、そんなもん、誰が信じるかと、自分自身が思いました。

しかし、なぜか、確かに、通る気がする。

気がするのです。

それ以外に、説明のしようがない。

なんじゃ、この天啓は!

 

じゃ、しょーがない。

もう1年だけ付き合ってやろうか、という気持ちでした、当時は。

通るんなら、何をしても通るだろうというわけで、聴講は適当にサボって、年末から春まで、イギリスに語学留学しました。

行った先は、イギリスはケンブリッジのベルスクールという語学学校。

ケンブリッジ大学を目指す英語圏以外の学生が世界中から集まっていました。

そこで、各国毎に、若者が絢を競う。

楽しかったですよ。

イタリヤの美女はどうなったかな?スウェーデンのアンデルセンは?

香港や台湾からも来てましたよ。

この時、気付きました。

「私は、外国の方が向いているな」と。

でも、さすがに、3月いっぱいで帰国。大学院の受験に備えました。

ベルスクール側は、もう1学期(3カ月)居ろと薦めてましたけど。

 

で、3度目の正直ということで、無事合格の運びとなった次第です。

目出度しメデタシ。

 

こういう風に書いてくると、苦節3年の演歌調に聞こえるかもしれませんが、私の主眼は別の所にあります。

なぜ、あの時点で、私は、あんなにも科学史・科学基礎論に固執したのでしょう。

私の自由意志だったのでしょうか?

それとも、何かが私を突き動かしたのでしょうか?

頭が良いと自他共に認める私が、2回も失敗するなんて。

しかも、受験し続けるなんて。

性格から言えば、とっくの昔に、別の道に行ってるはずなのに。

なにせ、才能に溢れているもので、それしか出来ない、どっかの専門家とは訳が違う。

この点は、万人が認めます。

では、なぜ固執したのでしょう。

 

その答えが、今頃になって、やっと出始めました。

天命を受けていたのです。

こう言うと、素人には変に聞こえる可能性があることは十分承知してます。

承知の上で、敢えて、言明します。

あの時の、あの行為は、天命に従ったのだと。

それ以外に、言い様がありません、当時の私の行為について合理的に説明しようとすると。

利に敏い、この私がですよ、あたら青春の真っ只中で、3年間も棒に振って、くすむなんてことは、普通には有り得ないことです。

下手すると、一生、棒に振るのですよ。

馬鹿じゃあるまいし、誰が受け続けますか。

司法試験と違って、博士とっても、就職先の保証はないのですよ。

 

閑話

当時の駄洒落に、次のようなものがありました。

「博士号とは、足の裏にくっ付いた米粒のようなものだ。」

その心は

「取らないと、気持ちが悪い。しかし、取っても、食えるわけじゃない。」

この自嘲は、あながち、誇張ではありません。

現に、私は、多くの博士浪人を見てきました。

いまでも、アメリカには、多くの大陸浪人(日本人ですよ)がいます。  ┫

 

当時の行為の合理的説明は、“天命+実家の余裕”。

これに尽きるでしょう。

歴史に“もし”はないのですが、もし、我が家が商売をしてなかったら、また、もし、親がうるさかったら、さすがの私も、いくら天命でも、3年も受験しませんでした、多分。

 

かくのごとく、この時期は、わたしにとって、決して順風満帆というわけではなかったのですが、この期間に私の生涯の方向性が定まったことは間違いありません。

読者にとって、少しは、親しみが持てたのではないでしょうか?

それと同時に、何か、運命、天命のようなものを感じてもらえれば幸です。

けれども、私のエリートとしての大河ドラマ的活躍を期待していた方々には、少し、不満かもしれません。

 

というわけで、以後は、一気に釣瓶落とし。

 

科学史・科学基礎論の大学院入学後は、規定の2年で修士を修了し、そのまま博士課程へ進学しました。

そして、無事、博士課程3年間で修了単位を取得しました。

(当時は、“飛び級”が無かったのです、日本には。)

その間、実家の商売は、休み毎に帰郷して手伝いました。

博士課程の成績は、私の記憶が正しければ、確か“良”が1個だけ。後は、総て、“優”でした。

(東大に記録が残っているはずです。調査してみてください。)

 

実は、この“良”に文句があります。

実質は、“優”なのに!

(数学科へ出かけて行って、某助教授の数学基礎論系科目をとったのです。そして、教官自身の書いた教科書にある間違いを、訂正したレポートを出したんですが・・・。)

 

これで、東大の大学院リターンマッチは勝ち。

参考までに、大学院の成績を公表しておきましょうか。

 

東大大学院

 

 

 

 

 

 

 

 

イリノイ大学留学

東大の大学院の後は、米国イリノイ大学の数学科博士課程に留学しました。

つまり、大学院を2回修了したわけです。

こういうことは、アメリカでは、当たり前の世渡りですが、日本では、まだ珍しい。

というわけで、この間の事情を少し詳しく述べておきます。

 

実は、当時の科学史・科学基礎論の博士課程では、制度上、原則として、博士が取得できませんでした。

その理由は簡単で、教授・助教授連中に博士号を持った人がいなかったからです。

(博士号を持ってない人は、博士の審査ができません。)

つまり、科学史・科学基礎論の院生で、博士を取りたい人は、どこか別の学科へいって、自分で勝手に博士号を取得するしか方法がなかったのです。

このような現象は、文学系の学科では珍しくありません。

例えば、当時の(多分、今でも)文学部哲学科の院生も博士号は取れない状態でした。

しかし、科学史・科学基礎論は理学部系の課程です。

いくら哲学の要素が強いと言っても、世間一般の人から見れば、博士課程を出て、博士号を持ってないようでは、一人前とは言い難い。

どちらかというと、落ちこぼれのようにすら見える。

当然、私も、そのように感じました。

博士号を寄越さないなんて、何か騙された気分です。

何のために、時間とエネルギーと金をかけて、博士課程を卒業したのやら。

理系では、肩身が狭いじゃないか、オイ!

 

但し、科学史・科学基礎論博士課程の修了者に、大学の職が無かったわけではありません。

少しの間、我慢すれば、皆、それなりの大学へ散らばって行ってました。(今はどうかな?)

博士課程3年の時点で、私も、少し我慢しようかなと考えてました、当初は。

しかし、やはり、博士号を取りたい。

取ってないと、何となく、気持ちが落ち着かない。気分が悪い。

(入学時の苦節2年をどうしてくれるんじゃ・・・。)

 

そんな気分の時、丁度、3年の秋でしたが、イリノイ大学の竹内という教授が東大で招待講演をしました。

イリノイの竹内といえば、当時の日本の数理論理学関係の分野ではドンです。

“ちょっと見物しておくか”ぐらいの気持ちで、講演を聴きに行きました。

風采は“頭の禿たオジサン”でしたが、結構、頭の中身が濃い。

(当然と言えば、当然か。当時、この分野の日本一じゃもの)

で、講演後、声をかけて、顔繋ぎをしておきました。

これが、私のイリノイ留学のきっかけになったのです。

つまり、年末(年始だったかな)に、竹内教授に手紙を出し、イリノイの博士課程に留学したい旨を伝えますと、二つ返事でOKになりました。

 

閑話

実を言えば、大学院に在学中、立て続けに、大事件が2つ私の身に生じました。

一つは、結婚+離婚です。(早業ですねー!)

これに関しては、また別のページで触れる機会があると思います。

二つ目は、父親の死。

しかし、長い闘病生活の末でしたから、それほどショックではありませんでした。

 

その結果と言ってはなんですが、博士課程3年の時点では、ある意味で、身軽になっていました。

つまり、後顧の憂い無く、留学ができる状況が整っていたのです。

実際、いつでも留学できるようにと、語学学校にも通っていました。

そのため、留学を決意して、すぐにTOEFLを受け、留学可能な点数(大学によって違います)を取ることが可能だったのです。

 

留学に関しては、なぜか、このように、順調に事が運びます。

当時、目に見えない何かが、私を留学させるように導いた“感じ”がします。

もっとも、他人から見れば、留学分だけ回り道に見えたかもしれません。

しかし、結果論かもしれませんが、少なくとも、この私にとっては、おとなしく日本で就職を待っているよりも、アメリカに留学した方が、有利に作用しています。     ┫

 

というわけで、東大の博士課程に籍を置いたまま、夏にイリノイへ旅立ちました。

ここで、“大学に籍を置いたまま”という点に注目してください。

つまり、そのまま卒業せずに、日本に帰る場所を確保しておいた上で、留学したのです。

普通なら、卒業しますよね。経歴の問題もあるし。

しかし、私は、籍を残す方を選びました。

この辺りが、私の面目躍如というところです。(あなたなら、どちらを選びますか?)

これで、人とかなり違う経歴になりました。

この経歴を、どのように生かすか。(それとも、殺すか。)

それは、私の腕次第でしょう。

(将来の大河ドラマの主人公は、矢張り、一味違うわ。)

で、今、このように、目の前で、生かしています。

 

さて、一口に留学と言っても、様々な形態があります。

実際、当時の私には、色々な可能性が残されていました。

博士課程を出たのですから、普通なら、研究者待遇で留学する。

そして、研究成果を日本に持ち帰って、日本のどこかの大学で博士を取る。

これが、当時の私にとって、一番、自然な留学形態でしょう。

(実際、私の留学中、そうやって竹内教授の研究室に来て帰った、日本からの留学生がいました。)

 

しかし、私は、敢えて、イリノイ大学の博士課程に正式に籍を置きました。

いいですか、イリノイ大学の“数学科”の博士課程です。

その理由は、そこが竹内教授のいた学科だったからという以上に、数学科だったからです。

ここがポイントです。

事情が見えてきましたか、読者にも。

そうです、リベンジです。

イリノイ大学の数学科は東大の数学科より、有名教授が多い。

大学院卒業で博士を取ると、国際的には、イリノイ大の方が格上です。

(日本では、東大の方が上だと思っているようですけど・・・。)

当時、私の留学少し前には、例の“4色問題”がイリノイ大の数学科で解決されてました。

また、計算機学科の方も、すでに有名でした。(インターネットのブラウザーは、後の話ですけど。)

私が正式に博士を取るのに不足はありません。

(MITやプリンストンの方が格上ですけど、なにせ、伝手がなかった。)

 

というわけで、1982年の夏(アメリカの大学の新学期は9月からです。)、日本を発って、イリノイに留学したのです。

せっかくですから、イリノイに行く途中、ハワイやラスベガスを見学しました。

(イリノイはアメリカの中部で、5大湖の南にある州です。シカゴのある州と言ったほうが判りやすいかも。当時、ヨーロッパは、かなり観光してましたが、アメリカは初めてでした。)

ここは、旅の情報を伝える場ではないので、道中の旅行記は省略します。(結構、色々とありました。)

ただ、次の点を言っておきたかった。

 

私は、アメリカには、丸3年いましたが、その間に、旅行したのは、ナイアガラの滝見物(トロント見物も兼ねる)と冬のコロラド(ベイル)スキー旅行だけです。近場のシカゴには2回行きましたけど。

あとは、ひたすら研究していました。

一刻も早く、博士を取って帰国したかったからです。

できれば、博士取得の最短記録を作りたかった。

なにせ、私の面子が懸っています。

あれぐらい“純粋に勉強した”3年間は高校の3年間以来です。

恐らく、生涯、もう二度とない経験でしょう。

 

というわけで、9月から、ヨーイドンでスタートです。

まず、英語圏以外からの留学生は全員、強制的に、英語のコースに入れられる。

これを最短の1タームでクリヤ。

(この出だしで躓く可哀相な人が結構いました。)

 

翌年の1月からは、数学科の授業に出席です。

フーン、なんとか判るぞ、授業の英語が!

当然、卒業までに必要な単位数が要求されてますから、それを確保するべく、できるだけ多くの授業に出る。

この冬学期で、かなり稼ぎました。

(アメリカの大学は3カ月が単位の年3学期制です。)

と、同時に、最初の関門である、“資格試験”の準備。

この資格試験とは、数学科で研究する基本的能力があるかどうかを試す程度の試験です。

(日本の大学院の2次入試程度か?)

代数、解析等、4、5科目のペーパーテストで、全員、同じ試験を受けます。

それで、自然に順位が付く。

この試験を、やはり最短で受験しました。(年、何回やってたっけ?)

当然、一発で合格。

というよりも、上位でパスしました。(某所からの情報によれば、恐らく、2番です。)

 

次の目標は、“認証試験”。

これをパスすると、博士論文を書いても良いという正式の許可が学科から出ます。

これは口頭試問で、試験官が3人一組で、1科目を受け持ちます。

選択で4教科ほどありました。(そのうちの1教科が論文関連教科です。)

これは本人の申告制で、自信がついた時点で、いつでも受験できます。

但し、(確か)2、3回受験して、失敗したら、それでアウト、大学院よサヨウナラ、という厳しい試験です。

勿論、それまでに、相当数のしかるべき科目の単位を取っていなければなりません。

これも、できるだけ最短(確か、2年次の最初の学期)で受験しようとしましたが、竹内教授が心配して止めます。

仕方ないので、1回、ずらして、受験しました。(これも、年に2、3回試験時期があったと思います。)

で、結果は、1科目が×。

英語のせいと、多少、アガッタせいです。

(山口でも、あがるのかと、日本人の留学生仲間に冷やかされました。)

ただ、これにはフォローがあって、英語の苦手な受験生のために、落とした科目の筆記試験があります。

(確か、3科目以上落としたら、その回は問答無用で×です。)

これを、口頭試問の2週間後に受けました。

当然、パス。

結局、英語のせいということで、恥をかかずに済みました。(クワバラ、クワバラ)

 

この試験の後は不足単位を取って、論文を書くだけです。

単位に関しては、最終的に、Bが3個ぐらい。後は、総て、A。

全Aでなかったのが残念ですが、速度を優先させましたから、仕方ないでしょう。

それに対し、論文は結構難しい。

 

はっきり言って、大学院入学の時点では、日本の東大の院生の方が、実力は上でしょう。

しかし、口頭試問あたりで力が並んできて、博士論文で逆転します。(双方とも、“例外”は除きます。)

これが、大筋で誰しも認める、現実でしょう。

なにせ、大柄な連中は体力が違う。

また、博士を持っているのと持っていないのとでは、給料に格段の差がつきます。

つまり、連中は、ビジネスのつもりで、本気で勝負するのです。

気迫が違う。

逆に言うと、かなりの%、修了できない院生が出てきます。

卒業できるのは、入学時の半分以下でしょう。いつのまにか、いなくなります。

 

論文の内容ですが、お情けで博士を出す教授は誰もいません。

同僚の教授の目が光ってます。

下手をすると、自分の評判、ひいては、首が危ない。

結果は製本されて、図書館に残ります。誤魔化しようが無い。

 

で、私も気合を入れて研究しました。

御陰様で、無事、博士号(アメリカでは、Ph.D.といいます)を3年で取得した次第です。

これは、かなり早い記録です。

通常は、(日本同様)5、6年かかるのです。

しかし、残念ながら、最短記録ではありません。

当時、大阪大学の数学科大学院から留学してきていた院生が、私よりも1学期早く博士を取ったのです。

(もっとも、私は、数学ではなく、科学基礎論を5年やっていたのですけど・・・。)

それに、聞く所によると、某有名大学院では、2年で取った奴がいるそうです。

私の記録から、英語学習と資格試験受験に要した期間を引いた時間より短い。

(アメリカの学生で、学部の成績が良いと、資格試験は免除されます。)

ヤルノー。世間は広い。彼氏の睡眠時間を知りたいもんだ!

 

マ、私はもっと凄いけど。(徐々に判るぜ。)

 

閑話

「アメリカの博士号は簡単に取れそうだ」と錯覚する人がいるかもしれないので、参考のため、次のような事実を挙げておきましょう。

当時から、アメリカの有名大学院で博士号を取(ってステップアップす)ることを目標に留学してくる日本女性は結構いました。

私の留学中のイリノイ大学にも、かなりの数の日本女性が大学院留学をしてきました。

しかしながら、実際に博士号を取得できた女性は、ほんの一握りでした。

(「稀」と言っても良いでしょう。“優秀”と思われている日本男性でも、半分程度じゃなかったかなー?)

多分、現在でも同じだと思います。

そして、イリノイ大学でのサンプルは、かなり汎用性があると思います。

誰かアメリカの有名大学全体の資料を持っていませんか?

 

これは女性蔑視発言ではありません。(ビジネス系HPですよ。)

あくまでも、サービス情報です。

こういう事実は、中々、表には出ません。

(何故出ないのか、判りますか?)

そういう意味で、“真に役立つ情報”だと言えるでしょう。

これを読んでいる読者の参考になれば幸いです。   ┫

 

このように、研究に没頭した3年間でしたが、研究ばかりでは、かえって能率が悪くなります。

また、アメリカで一人孤立して生活するのは、精神的によくない。

というわけで、週末は、日本人を呼んで、よくパーティーを開きました。

それが昂じて、イリノイ大学日本人会の会長をやったりもして。

(皆、どうしてるかな?)

けれども、とにかく、研究に全力を尽くしました。

本当、気持ちが良かった。

これが当時の、いや、今でもそう思ってますが、本音です。

 

閑話

但し、いささか、疲れた。

帰国後、体の具合が少し悪くて病院に行きましたもの。

体力の消耗とストレスと肉の食べ過ぎ(1日3食がビュッフェスタイル)で肝臓の調子が悪くなっていたのです。

(今では、完全に治ってます。)

高校時代は胃に来たけど、歳をとると肝臓に来るのか。

新発見でした。

気をつけねば。     ┫

 

かくして、無事、1985年の夏に凱旋帰国を果たしました。

リベンジ完了。バンザイ!

さて、いよいよ、就職です。

この続きは、職歴のページに移ります。

 

ちなみに、博士論文は公理的集合論の分野でした。

ついでに言うと、この論文に対し、賞を出そうかという打診がありました。

但し、賞は、大学の寮連合の名前(カッパとかプサイとかいうギリシャ名です)を冠したマイナーな奴。

高校時代に賞慣れしていたので、あっさり辞退しましたが、今、振り返ってみれば、惜しい気もします。

イリノイ大学院時代の成績も公開しておきます。

 

イリノイ大学院